藤原清道プロフィール
02少年時代~強い組織を支えている人の存在を意識~
京都洛中の西の果て、という意味の地名が残る西京極。私はその西京極に1973年(昭和48年)に生まれた。
東京出身の父征夫(ゆきお)と京都出身の母美枝(みえ)の長男で、私の後に一男、一女ができ、5人家族の中で育った。内弁慶の弱虫で、母や弟、妹には強く自己主張を行うも、外では言いたいことも言えず、幼稚園児の頃は、気に入らないことがあると教室のカーテンの影に一日隠れて泣いて過ごすこともしばしば。
大概のわがままは黙って聞き続けてくれた母。一方、いつも優しい言葉をかけてくれる母とは対照的な寡黙な父。大手建設会社のサラリーマンとして一家を支え、子供の前では仕事の話をすることはなかったが、家族を愛する真っ直ぐな眼差しが今も私の脳裏に残っている。
大戦末期に生まれた父は、戦場に征(ゆ)くという意味の出征の「征」の字を与えられた征夫(ゆきお)という名で、祖父からその名前に込めた想いを直接は聞かなかったものの、母国や家族、そして所属組織のために全力を尽くすという、その名に恥じない父の姿勢が、私の人生に大きな影響を与えたことは間違いない。
戦後の高度成長期。寝食を忘れるようにして働いた父。そして、自分の趣味や楽しみを全て後回しにし、家庭内で一切の不満を口にすることもなく家族の幸せに尽くした母。
後年私が、所属組織や仲間の為に全力を尽くすことに対して、喜びを感じて生きるようになったのは、そうした父と母の生き様が自分の底流にあったからかもしれない。
1979年(昭和54年)、奈良県の小学校に入学。内弁慶の人見知りだった私だが、自由な校風の田舎の小学校の空気が肌にあったようで、次第にクラスの人気者になり、いつの間にかリーダー的存在へ。
しかし、良かったのはそこまでだ。物心ついた頃から、人を笑わせること楽しませることと、スポーツが大好きだったのだが、とにかくお調子者で考えるよりも行動することのほうが早かったため、好きなことをしていても、さまざまな失敗や過ちを繰り返す少年で、先生から叱られた回数は数しれず。
スポーツは、小学生低学年から野球をやっていたが、下手の横好きで定位置は二軍の補欠。手のひらがボロボロになるまで素振りを繰り返し、父に付き合ってもらって毎日守備練習を繰り返すも、チームの練習では三振とエラーの山を積み重ねるという始末。
試合に出られるのは、負けが決まった試合の最終回の代打か、最終回の守備。その敗戦処理の最終回の守備ですら、エラーをして途中交代させられた経験は、今となっては貴重な笑いのネタのひとつ。
毎回試合に出て活躍してる同級生を横目で見て、自分は選手としては能力がないとすぐに自覚したのだが、チームを辞めるという選択肢は行使しなかった。
なぜか?それは、その時にお世話になっていたコーチが発した一言による。「藤原くん、君の言葉に元気づけられているレギュラー選手が何人もいる。君は間接的にチームの勝利に役立っているんだよ。その貢献度は、君が試合でホームランを打つことよりも大きいものだ」と。
選手としてはチームの足手まといにしかならないような自分が、チームの勝利に貢献している?小学生時代の私には、自分の存在がチームにどんな影響を与えているかを正確に理解することはできなかったが、そのコーチのその一言が、自分という人間が「選手としての能力に関係なくチームの勝利に貢献できる人材になり得る」ということを認識させたことは間違いない。
そしてそのコーチが、選手として能力の高い人間だけでなく、全く能力がない人間までもが、チーム力を上げる為に、喜んで力を尽くしたくなるような空気を作っていたことも間違いない。

組織として大きな夢を描き、その夢に向かって成果を積み上げていく。目的を達成する為に重要なことは、表舞台で活躍するレギュラーメンバーの力と同等以上に、それを支える環境づくり。その環境づくりに貢献する人間の存在が、強いチームには必ずあるということを、実体験を通じて知ったのがこの頃。1985年(昭和60年)、当時の私は12歳。
一方、人を笑わせることや 楽しませることがとにかく好きだった私は、小学生の頃から、クラス内でコントや漫才の真似事をしてみたり、学校行事として行われていたお楽しみ会や文化祭で行う演劇の脚本を趣味として書いていたのだが、それが校内で予想外に大ヒット。
野球では一度も表舞台に立つことはなく、常に裏方としてチームを支える側に回っていたが、漫才や演劇という文化系のことに関しては、表舞台に立ってダイナミックにメンバーを率いていくということも経験させていただいた。
中学校時代には、文化祭の演劇発表会に向けて書き下ろした脚本が、先生方からも高く評価された。時事ネタや旬なお笑いネタを入れながらも、演者と観客が物語に没入できるような作り込みに挑戦し、脚本完成後は、自分は出演せずに監督に専念。
「自分が描く架空のオリジナルストーリーに多くの人が巻き込まれ、巻き込まれた人たちが輝き、そしてそれを見る人たちが笑顔になってくれる。」
自らがプレイヤーとして輝くのではなく、仲間たちが楽しく活動できて、仲間たちが輝ける場を作るという活動に、面白さとやりがいを体感したのがこの頃。1988年(昭和63年)、当時の私は15歳。
今振り返ると、「従業員満足度」の向上を志す私の信念の根っこは、この頃に形づくられたのだと感じる。
大変ありがたいことに、縁あってこうしたことを小学生、中学生時代に経験できたことが、現事業の創業理念と深い部分でつながることになったのだろう。
- 目次
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- 01私心なき経営~力なき人間が挫折を経て夢を追う~
- 02少年時代~強い組織を支えている人の存在を意識~
- 03落ちこぼれの高校時代~底辺を味わいながらも成功体験も~
- 04経営という仕事との出会い~自らの力で社会を渡り歩く魅力に取りつかれる~
- 05会社員経験~バブル崩壊直後の大手子会社で学ぶ~
- 06会社創業期~いきなりの挫折 惨めな船出~
- 07戦略なきドブ板営業~そこから繋がるディープな世界も~
- 08地方行脚~祖母の自宅に転がり込む~
- 09ミラノ出張~911の直後に国際線に搭乗する~
- 10上昇気流~大きな爆弾を抱えていることに気づかずに進む~
- 11組織の崩壊~従業員満足度への目覚め~
- 12第二創業期~クレド経営との出会い~
- 13クレド開発から導入、そして実践~粘り強さが作り上げたもの~
- 14マイクレド~自律自走の本質を知る~
- 15日刊メルマガの発行~ダメな自分を躾けていく最高のツール~
- 16従業員満足度研究所の立ち上げ~自らの事業経営の意義を見出す~
- 17コンサルティング事業~一般的なコンサルの常識を破壊する~
- 18従業員満足度実践塾~コンテンツの質を落とさずに、格安で学ぶ場を提供~
- 19子育てと教育~本質は、従業員満足度を高める組織づくりと同じである~
- 20「新 従業員満足度ES2.0」の執筆~日本企業の未来のために使命感を持って取り組む~
- 21クレド開発・浸透支援事業~組織づくりに悩むすべての企業に貢献する~
- 22後進の育成~日本の隅々まで、従業員満足度を高める経営を浸透させるために~
- 23生涯現役~働くことで人生が豊かになり、人間的成長ができると確信~