自己紹介

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従業員満足度研究所 所長 藤原清道のプロフィール

1973年京都生まれ。三和銀行(現:三菱東京UFJ銀行)系列の中堅旅行会社で外務員として勤務後、当時の取引先であったオートバイ業界の商社に転身。経営者および、経営幹部社員の近くでスピード感のある毎日を過ごしながら、学問として机上では学ぶことのできない、小さな会社の生の商売を現場から学ぶ。その後1997年にベンチャー企業の創業に参画。弱冠24歳で小さな会社の経営に直接携わることになる。

2007年には、自社内にクレド経営を導入。導入から浸透の過程において得たノウハウを個人版にアレンジした“マイクレド”を開発し、そのつくり方・使い方のセミナー講師も務める。(セミナー主催:いなだ社会保険労務士事務所)






なぜ、従業員満足度世界一を目指すようになったのか?


1997年、夢と希望に満ち溢れた男たちが横浜の小さな事務所に集い、ひとつのベンチャービジネスをスタートさせた。


「夢とやりがいのある会社をつくってみせる!」

当時の私は、まだ弱冠24歳。夢と情熱、そして気合いがあれば全てが解決すると強く信じて疑わなかった。
しかし、現実はそう甘くはなかった。会社立ち上げからわずか数ヶ月後には、『理想じゃメシは食えない』という現実が目の前に立ちはかる。

ボロボロの集合住宅で、妻と生まれたばかりの赤ん坊との生活。税金や年金などほぼ全ての支払いが免除されるほどに収入が落ち込み、生活そのものが困窮を極めた。

個人名義の預金口座に残っていたお金が底をついてからは、自家用車など換金できるものは全て現金化し、自らの時間と私財の全てをこの立ち上げたばかりの会社につぎ込んだ。

妻の洋服なども現金に換えて何とか食いつなぐ生活。世の中、カネがないと何もできないことを痛感した経験から、会社立ち上げ当初に持っていた理想を捨て、利益至上主義を公言して憚らないようにもなったのもこの頃。文字通り寝食を忘れて働きつづけ、利益だけを追求した結果、2000年頃からようやく事業は軌道に乗り始めた。

社員も一人また一人と増え、業績は右肩上がり。結果が出始めたことで、自らの正しさが証明されたと思い込み、更なる利益至上主義へと加速。

しかし、その時にはまだ、自らがおかした大きな間違いに気づくこともなかった。


外からは、順調に事業を拡大する成長企業に見えていたかもしれない。事実、創業以来、一度も業績を落とすことなく右肩上がりに増収増益を記録。しかし、その業績と反比例するように、社内の雰囲気は悪くなる一方。それでも、厳しく数字を追う営利企業にあって、多少の雰囲気の悪さはやむを得ないものと割り切っていた。



しかし・・・

「藤原さん、アンタにはついていけない。」

信頼されていると思っていた従業員の方たちが相次いで退社。後頭部を思いっきりハンマーで殴られたような衝撃だった。


「オレは何か間違っていたのだろうか・・・。」
利益至上で事業を行った結果、従業員の給料も格段に上がった。

しかし、結局みんな離れていったという事実。彼らが求めていたものは、給料アップでも事業の拡大でもなかったのだ。それよりも大切なものが心の中にあったのである。

そんなこともわからなかったなんて・・・



いまの私のマイクレドには、

『みんなが楽しく働けて、みんなが輝ける組織をつくる』

という文章が書かれている。


私はかつて大きな過ちをおかした。

利益を追い、業績や従業員の給料も上がった。しかし、ベンチャービジネスを立ち上げた当初に思い描いた会社は、こんな会社ではなかったことに気づかされた。

利益を追うあまりに大切なものを見失い、多くの従業員に愛想をつかされ、しかし、そのおかげで事業経営の本質にたどり着くことができた。


もう同じ過ちは絶対に繰り返さない。

だからこそ、従業員の心を優先した経営がしたい。
だからこそ、まず従業員満足度ありき。

従業員満足度を上げること自体が目的であり、その結果として顧客満足度をうむ。その顧客満足の結果として利益が出る。

売上や利益が目の前にぶら下がっていても、従業員満足度が下がるような仕事は絶対にしない。


「従業員満足度世界一」の組織づくりを目指すようになったのは、どこかの書籍やセミナーから影響を受けたわけでもなければ、先輩経営者から諭されたわけでもない。

上述のような自らの経験から、導き出した使命なのである。




ONのBiography


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横浜市の有名私立進学校を卒業したが、大の勉強嫌いだった私は、大学はおろか専門学校の受験にも失敗。

その専門学校の不合格通知の中に、「夜間部なら受け入れ可能」と書かれていたため、とりあえず、これも運命と思い、そのまま専門学校の夜間部にお情けで入学させてもらうことに。


その後2年間(18歳から20歳)は、当時の三和銀行(現三菱東京UFJ銀行)系列の中堅旅行会社で初めての社会人生活(といっても研修生扱いだが)をスタートさせながら、夜は旅行専門学校で勉強という二足のわらじ生活を送っていた。


父方に医者、母方に起業家の血統をもつ私は、いったいどちらの血が濃いのかと自分でも興味を持っていたが、初めての社会人生活で、お金を稼ぐことの面白さを知り、自分の体には医者ではなく起業家の血が流れているということに本能的に気がついたのがこのころ。

高校時代の同級生が大学で遊びほうけているころ、お金を稼ぐことの面白さにはまり、徐々に夜間学校に行く日も少なくなっていく。(・・・で、結局単位不足で卒業できず)


そのころ世間ではバブルが崩壊。就職氷河期といわれていたちょうどそんなときに、私たちの就職活動が始まった。

そんな世間の不況を尻目に、たいした就職活動もしなかった私だったが、当時としてはあり得ないようなオファーが舞い込んできた。当時研修生として勤めていたその旅行会社の部長に呼び出され、「就職するなら、ぜひうちに」と。

しかし、大手資本が入った大企業の子会社では「商売の本質が学べない」と思い、丁重にお断りを入れ、創業まもない社員数数名の旅行会社の門を叩くことに。


「俺はビッグになる!サインが欲しい人は今のうちに!」
などと友人たちに公言していた当時の私。

この口だけは一人前のあまったれ小僧が社会の厳しさを知るまでに、そう時間はかからなかった。

風呂なしトイレなし電話なしの四畳半一間で生活し、飛び込みのドブ板営業はもちろん、上司の車磨きからマッサージまで何でもやった。

何があっても絶対逃げないと心に誓い、歯を食いしばりながら旅行の仕事に向き合い始めて数か月がたったころ、高校時代の先輩から、「俺の会社に来い。お前の情熱をうちの会社に注いでくれ。」と言われ、なぜかあっさり全くの別業界へ転職。

しかし、今思えば、この転職が私の人生のターニングポイントだった。


ここで出合ったのが、今でも私のビジネスフィールドである、オートバイ業界。

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社員数15名ほどのオートバイ業界の商社で働きながら、大人の良い世界も悪い世界も知るようになったのがちょうどこのころ。

同世代の友人たちより、多くを稼いでいることを誇りに思いながらも、比較的単調な毎日に、「俺はこのままで本当にビッグになれるんだろうか・・・」と自分の実力を疑い始めたころ、

この商社を辞めて起業しようとしていた先輩から、一通のファックスが自宅に届いた。携帯電話もパソコンも一般に普及していなかった時代だ。


「若い衆を一人たのむ。」

筆ペンのようなもので、A4の紙に、たったひとこと。気がついたらその先輩の前に立っていた。このとき私はまだ弱冠24歳。

その先輩は、本当は私に、誰か別の人間を紹介してもらいたいようだったが、そこを強引にねじ曲げてしまうあたりが私らしさか。


97年に設立登記をし、98年から営業活動をスタートさせた私たちだったが、世間の風あたりは予想以上に厳しく、収入は前職の三分の一以下。持っていた貯金も最低限の生活費を残し、残りはすべて会社に投入した。

それでもベンチャー企業の創業に携わることができた喜びは何物にも代え難く、そのころに「自分は、メシは食わなくても夢を食って生きられる人間」であることに気がつく。


それから19年がたち2016年。
根拠のない自信家だった私も、多くの失敗からたくさんのことを学び、今年で43歳になる。

主に営業畑で生きてきた私だが、最近は組織、人事、財務なども学びながら、名前だけでない真の経営者を目指している。

学生時代にさんざん勉強をサボった反動からか、勉強するのが楽しくてしようがない今日この頃。わずかな時間を見つけては、経営にまつわる勉強をするのが目下楽しみの一つでもある。


今後のビジョンは、質の高い内的報酬を経営陣も含めた全従業員間で与えあえる組織をつくりあげること。

そしてその質を全従業員が高め続ける努力を自発的にし続けられるような企業文化が根付くようサポートすること。

平日の日中は、主に横浜市内のオフィスで経営だけでなく、あれやこれやと雑用もこなしている、私、藤原清道です。





OFFのBiography


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京都生まれの奈良育ち。大阪に程近い奈良の生駒という地で幼少期を過ごす。

今でこそナチュラルな標準語を使いこなす私だが、バリバリの関西弁の中で育ったこともあり、今でも関西の人と話すとつられて関西なまりになってしまうのは、こんな幼少期のバックグラウンドが影響しているもの。

小学校6年生の時に、「日テレ系バラエティ番組 “欽ちゃんの仮装大賞”」でテレビデビューを果たし、調子に乗った私が小学校の卒業文集に書いた夢は、「漫才師」。

学校では人を笑わせることにおいては誰にも負ける気がしなかったことから、将来は吉本興業に入ってお笑いでメシを食うことを決意したが、程なく父親の転勤で、家族道づれで横浜へ。吉本興業へのはかない夢が断たれた瞬間だった。


どうも関東の水が馴染めない、関西出身のお笑い崩れの私に、次の転機が訪れたのが、高校2年生の1学期。

学校一の暴れん坊でありケンカ王者でもあった、ある人物との運命的な出会いから、全国レベルの空手道部に入部することになる。

人を笑わすことにかけては絶対的な自信を持っていたものの、幼少期から体が細くケンカは勝つことより負けることの方が多かった私を、なかば強引に誘ったその人物こそが、私の人生を大きく変えたといっても言い過ぎではないと思う。

華奢な体でケンカのセンスもなかった私が、全国レベルの空手道部の活動やりきったという成功体験。


「世の中やってできないことは何もない」

ということを、自らの身をもって知った高校時代となった。


部活一筋、女も学業も知らないままに社会に飛び出した私に訪れた次の転機が、22歳での結婚。
相手は三歳年上のキャリアウーマン。

高校時代の仲間たちが、大学で、“酒だ、女だ、ギャンブルだ” と遊んでいる間に、リアルな商売の面白さと、同級生の女の子とはケタ違いの魅力を持つ年上女性の魅力をいち早く知った私だったが、今思えばかなり調子に乗ったアマちゃんの若造だったなぁと、ふと考えると恥ずかしい。


その後、24歳の時に第一子が誕生。
そして、その第一子誕生から数ヶ月後には、お金も地位も全てを捨てて無名ベンチャーの創業に飛び込んだのだから、
その無謀さといったら誰にも負けないと思う。
(妻もまあ、よく離婚届を持ってこなかったものだと、いまだに不思議である)

この第一子の長女は現在大学一年生。
この子の生まれ年といまの事業の創業年度が同じである(弊社設立登記の翌月に長女が誕生)ことは偶然でしかないのだが、弊社の成長過程とと長女の成長過程が奇しくもにているのはなぜだろう。
生まれてしばらくの間(10年くらい)は、同級生よりも成長が遅く心配したものの、19年目の現在は、誰の目にも立派に成長しているというあたり・・・、気持ち悪いくらいよく似ているのである。


家族も大事、従業員も大事、友達も大事。

大好きな人たちに囲まれて生きていられることの喜びをかみしめながら、大好きな読書にいそしむのが、最近のもっとも贅沢な休日の過ごし方である。

生粋の関西の血でありながら、横浜のベイサイドに住を構え、今ではすっかり浜っ子気分。

そんな潮と異国の香りが漂う横浜で、おしゃれでインテリな関東人のマネをして暮らすことが、最近の私のお気に入りになっている(笑)


VENEZIA 036
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