毎日毎日、いろんな場所で、いろんな話を見聞きします。本を読んだり、他人から聞いたり。
そして、いろんな話に出あったときに、人はよくこんな言葉を口にします。
「あぁ、それ知ってる」
知っている。たしかに知っている。でも、知っているだけで終わっていることが、私たちにはあまりにも多いのです。
今回は「ラダー効果」という概念を入り口にしながら、知っていることと、それを生きていることの違いについて書いてみたいと思います。
ある時、旅人が石を積んでいる職人A、B、Cに出会いました。
旅人が「何をしているんですか?」と一人ひとりに質問したところ、職人Aは「石を積んでいる」と答え、次に職人Bは「教会を造っている」と答えました。そして最後の職人Cはこう答えました。「人々の心を癒やすための仕事をしている」と。
職人A、B、Cはすべて、「石を積む」という同じ仕事をしています。しかし質問に対する回答はそれぞれ異なっています。職人Aは「石を積んでいる」という”行為”を、職人Bは「教会を造っている」という”目的”を、職人Cは「人々の心を癒やすための仕事をしている」という”意味”を答えているのです。
では、この中でどの職人が、自分の仕事にやりがいを持ち、質の高い仕事をしているのでしょうか。当然、答えはCです。職人Cは、自分の仕事の必要性を認識し、その意義と価値を見出して取り組んでいるので、ゴールに向かってまい進することができます。一方、職人Aは仕事を行為レベルで捉えているため、その目的を把握できず、この仕事に時間を費やすにつれて不満が募りかねません。
この「石を積む」に似た行動は、私たちの生活の中にもたくさんあります。
たとえば、ある日の夕飯づくり。「夕飯をつくっている」という行為レベルか、「家族の栄養バランスを支えている」という目的レベルか、それとも「家族がずっと幸せに過ごせるように健康を支えている」といった意味レベルか。
その捉え方次第で、夕飯づくりに対して湧き出るエネルギーの大きさにきっと違いがあるでしょう。
もし、目の前の仕事に対するあなたのモチベーションが下がっているとしたら、抽象度のハシゴを一段ずつ上り、「誰の役に立つのか?」「社会的な影響は?」など、その仕事の意味を自分に対して問いかけてみましょう。
仕事を行為レベルで捉えるのではなく、その意味とのつながりを見出すことができれば、取り組む姿勢も前向きになり、行動が変わってくるはずです。
意識して訓練すれば、この思考は身につけることができます。
……と、ここまでは、ラダー効果についての一般的な説明です。多くの方がすでにご存知のことと思います。
しかし、知っているだけでは実はあまり役に立ちません。
私がこの記事の初稿を書いたのは2010年のことでした。あれから16年が経ちましたが、この間に何度も痛感させられたことがあります。
それは、ラダー効果というものが、一般に語られているような「やり方」の技法ではなかったということです。
どういうことか。
ラダー効果は通常、「仕事の捉え方を変えることでモチベーションを上げる手法」として紹介されます。つまり、認知の枠組みを操作するテクニックとして語られることがほとんどです。
しかし、テクニックとして使おうとした瞬間に、それは力を失います。
「意味レベルで仕事を捉えなさい」と部下に言ったところで、言われた側に響くかどうかは、言っている本人がどういう「在り方」で仕事をしているかにかかっています。言葉ではなく、存在そのものが問われるのです。
私は30代の頃に、組織が内部から崩壊していくという経験をしました。あの頃の私は、まさにラダー効果を「やり方」として使おうとしていたように思います。仕事の意味を語る言葉は持っていた。しかし、自分自身が意味レベルで仕事を生きていたかと問われれば、正直に言って、そうではなかったのです。
従業員たちが疲れた表情で働いていたのは、「行為レベル」で仕事をさせてしまっていた私に責任がありました。しかしそれは、私が意味を「伝えなかった」からではなく、私自身が意味を「生きていなかった」からでした。この違いは、決定的です。
在り方が先で、やり方は後からついてくる。
これは私がこの16年間で最も強く確信するようになったことのひとつです。ラダー効果に限らず、あらゆる経営手法やマネジメント理論に同じことが言えます。どんなに優れた手法も、それを使う人間の在り方が伴っていなければ、空虚な操作に終わります。
ラダー(はしご)を上るというのは、視点の抽象度を上げることです。しかし、抽象度を上げるという行為そのものが、すでに在り方の問題なのです。「この仕事にはどんな意味があるのか」と問い続けることができるかどうかは、テクニックではなく、その人がどう在るかの現れです。
19世紀イギリスのテキスタイルデザイナーであり思想家でもあった、ウィリアム・モリスという人物は、「労働と美の一致」ということを生涯かけて追求しました。モリスが見ていたのは、産業革命によって労働から美が切り離されていく社会の姿でした。効率のために分断され、意味を剥ぎ取られた労働。それは、まさに「行為レベル」に押し込められた働き方そのものです。
モリスの思想を私なりに解釈すれば、仕事における「意味レベル」とは、外から与えられる理念やビジョンのことではありません。それは、自分の手を動かしている、その行為そのものの中に美を見出すことです。
私は毎朝、靴を磨きます。珈琲をネルドリップで淹れます。庭の草をむしります。
これらはすべて、他人から見れば取るに足らない「行為」にすぎないかもしれません。しかし私にとって、革に艶が出ていく過程、湯が粉に触れてゆっくりと膨らむ瞬間、土に触れながら庭が整っていく時間は、そのまま仕事への向き合い方と地続きになっています。
つまり、梯子を上って意味レベルに到達するのではなく、目の前の行為そのものの中に、すでに意味が宿っている。そのことに気づけるかどうかが、在り方の問題なのです。
ここで、ラダー効果の一般的な理解とは少し異なる話をします。
ラダー効果は「行為→目的→意味」とハシゴを上っていくモデルですが、私は最近、むしろ逆の方向にこそ本質があると感じています。
意味レベルから降りてきて、目の前の行為を丁寧に生きる。
石積み職人Cが偉大なのは、「人々の心を癒やす仕事をしている」と語れたからではありません。そう語りながらも、目の前の石を一つひとつ、丁寧に積み続けていたからです。意味レベルの言葉を持ちながら、行為レベルの仕事を疎かにする人がいたとしたら、それはラダーの梯子を上ったのではなく、地に足が着いていないだけです。
これは経営においても同じです。立派な理念やビジョンを語る経営者は少なくありません。しかし、日々の仕事の中で、一通のメールを丁寧に書いているか、一人の従業員の表情の変化に気づいているか、一つの判断に誠実に向き合っているか。そこに在り方が現れます。
ラダー効果をモチベーション技法として教えることは、もちろんできます。しかし、それだけでは「知っている」で終わります。
大切なのは、意味というものは、外から貼り付けるラベルではなく、自分の内側から湧き出る報酬であるということです。
給与や評価や承認といった外的報酬は、たしかに大切なものです。しかし、それだけで人は意味レベルの仕事をすることはできません。自分がこの仕事をしていることの手応え、自分の手で何かが良くなっていく実感、誰かに言われなくても「これでいい」と思える感覚。
そうした内的報酬を自ら見出す力こそが、ラダーの梯子を本当の意味で上っていく力になるのです。
そして、内的報酬は、在り方からしか生まれません。
この記事を読んでくださっている経営者のみなさんに、改めて問いかけたいと思います。
御社の従業員のみなさんは、疲れた表情で仕事をしていませんか?
もしそうだとしたら、まずご自身の在り方を見つめ直してみてください。意味レベルで仕事をするよう促す前に、あなた自身が目の前の仕事の中に美を見出しているかどうか。その在り方こそが、どんなテクニックよりも強く、周囲に伝わっていくものだと私は思っています。
知っていることと、生きていること。
その距離を縮めていくことが、経営者としての、いや、一人の人間としての生涯の仕事なのかもしれません。
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当社の「従業員」の定義
当社では「従業員」を“理念やクレドに従う全スタッフ”と定義しています。
つまり一般的な社員だけでなく、アルバイトさん、パートさん、
そして経営トップや役員も従業員の一人であり、そこに優劣はありません。
一般的には、経営者に「従う」という意味で従業員という言葉が使われていますが、
当社では理念やクレドに「従う」という意味で、
経営トップも含めて関係者全員を従業員と定義しているのです。
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