優秀な人が辞めた。あるいは、辞めそうな気配がある。
そう感じてこの記事にたどり着いた方は、おそらくもう一人、二人と失ったあとではないでしょうか。そして、こう思っているかもしれません。なぜ、辞めてほしくない人から辞めていくのか、と。
この問いに対する答えは、すでにたくさん出回っています。評価制度が不透明だから。裁量がないから。報酬が市場価値に見合っていないから。人間関係。成長機会の不足。どれも間違っていません。
ただ、それらをひと通り読んで、対策も一つずつ手をつけて、それでも人が辞め続けている経営者を、私は何人も見てきました。
なぜ効かないのか。私は、問題の起きている場所が違うからだと考えています。
「うちは特に問題は起きていない」という感覚
ある職場で、優秀な人が一人辞めたとします。当然、穴が空きます。しかし多くの場合、その穴は数週間で埋まります。残った人が少しずつ引き受けて、業務は回り始める。
すると、経営者はこう感じます。「大変だったが、何とかなった」と。
この感覚こそが、次の離職を準備しています。
なぜなら、「何とかなった」は「元々余裕があった」ではなく、「残った誰かが余分に背負った」という意味だからです。しかし背負った側は、それを申告しません。優秀な人ほど、申告しないのです。
優秀な人は、辞める前に組織の穴を埋めている
私が組織を見ていて、最も一貫して観察できるのがこの性質です。
優秀な人材ほど、組織や周囲の不足を、自分の仕事として吸収してしまいます。
マニュアルにない判断を引き受ける。新人の教育を巻き取る。他部署との調整をいつのまにか担当している。誰も手をつけていない問題を、頼まれる前に処理している。
そして、その吸収力があるからこそ、組織は表面上、何も問題がないように見えます。
さらに厄介なことに、吸収できる人には、次の穴埋めが期待されるようになります。「あの人なら何とかしてくれる」という認識が、組織の中に定着していく。こうして、個人依存の文化が根を張ります。
経営側は、そこに甘えます。悪意はありません。むしろ、問題が起きていないので、甘えている自覚すらないのです。
「困っていることはない?」と聞いても、答えは返ってこない
多くの経営者が、この時点で面談を行います。そして、こう聞きます。
「最近どう? 何か困っていることはない?」
優秀な人は、ほぼ確実にこう答えます。「大丈夫です」と。
嘘をついているわけではありません。彼らにとって、その状態は「困っている」ではなく「自分がやるべきこと」として処理されているからです。困っていると言うためには、まず自分が過剰に背負っていると認識する必要がありますが、吸収が習慣になっている人ほど、その認識を持ちません。
ですので、聞き方を変える必要があります。たとえば、
「今あなたが引き受けている仕事のうち、本来はあなたの担当ではないものは何ですか」
これなら答えられます。事実を聞いているからです。そして、その答えを集めると、組織のどこに穴が空いていて、誰がそれを塞いでいるかが見えてきます。
前兆は「不満」ではなく「静けさ」として現れる
退職の前兆として、よく挙げられるものがあります。残業が減った。会議で発言しなくなった。飲み会に来なくなった。
これらは確かに前兆です。ただ、順番が逆に理解されていることが多い。
不満が溜まって辞めるのではありません。期待するのをやめたから、静かになるのです。
不満を言っている間は、まだその人は組織に期待しています。言えば変わるかもしれないと思っているから、言う。提案が通らない状態が続き、背負っている量が減らず、それでも誰も気づかないと分かった時点で、人は言うのをやめます。
そして静かになり、粛々と業務をこなし、ある日、辞表を出す。
経営者から見ると「突然辞めた」ように見えるのは、このためです。突然ではありません。声が届かなくなった時点から、時間をかけて進行していたものが、その日に見えただけです。
では、何をするか
抽象的な話が続きましたので、具体的な打ち手を挙げます。
1. 個人依存の棚卸しをする
「この人が明日辞めたら止まる業務」を、社員ごとに書き出してください。人事評価とは別に、経営者自身が手を動かして書くことをお勧めします。
書けない社員がいたら、それは属人化していないのではなく、経営者が把握していないだけである可能性が高い。書き出してみると、特定の一人に線が集中していることに驚くはずです。
2. 吸収してくれていることを、明確に認識して伝える
給与や役職といった外的な報酬も当然必要ですが、それだけでは足りません。
自分が組織のために余分に背負っていることを、経営者が正確に把握している。そのこと自体が、働く人にとっては大きな報いになります。逆に言えば、背負っていることに誰も気づいていないという状態が、最も人を疲弊させます。
金額の問題ではなく、見られているかどうかの問題です。
3. 依存をゼロにしようとしない
ここは誤解されやすいところです。
属人化を解消しよう、標準化しよう、という方向に一気に振ると、今度はその人から仕事の面白さを奪うことになります。裁量を持って引き受けているからこそ、やりがいを感じている部分が必ずあるからです。
ある程度の依存は、本人の満足度をむしろ高めてもいます。問題は依存そのものではなく、依存に甘えすぎることです。
どこまでが本人の充実で、どこからが組織の怠慢か。その線引きを経営者が意識的に持つこと。これに正解はなく、私自身も自社で試行錯誤を続けています。
4. 面談の目的を、業務報告に置かない
進捗確認だけの面談なら、それは会議です。
その人が何に喜びを感じ、何に消耗しているか。これから先、どうありたいか。そこまで降りていく時間を、意識的に取る必要があります。私の会社では、目安として時間を決めてはいますが、深い話になった日は時間を区切りません。結果として4時間を超えたこともあります。
効率だけを見れば、明らかに非効率です。しかし、優秀な人が静かになってから慌てるコストと比べれば、比較になりません。
私自身が、優秀な人を辞めさせた側でした
ここまで書いてきたことは、外から観察して分かったことではありません。
私はかつて、業績だけに意識を集中させた経営をしていました。その結果、社員の個性を抑え込み、重苦しい空気のチームを作り上げていました。当時の私にとって、問題が起きていないことは、うまくいっている証拠でした。
そして、組織が崩壊しました。
あの時に辞めていった人たちは、辞める直前まで、私に何も言いませんでした。言っても無駄だと判断されていたのだと、後になって分かりました。私は最後まで、何も起きていないと思っていたのです。
腕のない大工は、良い木材を台無しにします。名工は、節も曲がりも長所として生かす。私は長い間、前者でした。だからこそ、良い木材を台無しにしている経営者が世の中にどれだけ多いか、そしてその自覚がどれだけ持ちにくいかが、よく分かります。
何も起きていない、を疑うところから
優秀な人が辞める理由は、一つではありません。この記事に書いたことがすべてでもありません。
ただ、対策を打っても効かないと感じている方には、まず「今、何も起きていない」という認識そのものを疑ってみることをお勧めします。
何も起きていない職場には、起きないようにしている誰かが、必ずいます。その人は数字にも評価にも現れません。何も起きていないからです。
その人が辞めた時に、初めて存在が証明される。そうなる前に気づけるかどうかが、組織を預かる人間の仕事なのだと、私は思っています。
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