がむしゃらに営業活動を続ける日々の中で、少しずつだが、確実に結果は出始めていた。仕入れた商品が利益を生み、毎月の家賃や固定費について、以前ほど神経をすり減らさずに済むようになってきた。
ここに至るまで、三年近くかかっている。取引先やお客様との関係も徐々に深まり、会社にわずかながらもお金が残るようになってきたのが、この頃だった。
だが、ここで歩みを止めるわけにはいかない。一瞬でも手を緩めれば、ようやく掴みかけた流れは、簡単に途切れてしまう。小さな成功ほど、脆く、不安定なものはない。
そう考えた私は、会社に残り始めたお金を、自分たちの報酬として受け取ることなく、次の仕入れと、地方への出張、営業活動の費用に回した。販売先を地方へと広げることができれば、もう一段、事業は前に進むはずだ。
まずは首都圏に次ぐ商圏である関西エリアへ。新幹線に乗り込み、営業活動の範囲を広げていった。
だが、現実は甘くなかった。首都圏での小さな成功体験を、そのまま関西でも再現できるほど、ビジネスは単純ではない。交通費、宿泊費、食事代。地方での営業活動は、首都圏以上に、容赦なく経費がかさんでいった。
手ぶらで帰るわけにはいかない。そう思えば思うほど、結果は出ず、会社の貴重なお金だけが減っていく。胸が締めつけられるような思いだった。
それでも、営業に行かなければ未来はない。考え抜いた末に、私は、当時京都に住んでいた祖母の自宅を、関西営業の拠点として使わせてもらうことにした。母の実家である。
祖母の家に寝泊まりすれば、宿泊費はかからない。時間によっては、食事まで用意してもらえる。当時、祖母はすでに八十歳を超えていたはずだが、孫である私の申し出を、喜んで受け入れてくれた。
朝早く起こしてもらい、祖母の手作りの朝食を腹いっぱい食べ、関西各地の企業を回る。訪問件数を増やせば増やすほど、結果も少しずつ出始め、仕事はますます楽しくなっていった。その頃の私は、疲れを感じることすらなかった。
だが、ある日、祖母が倒れた。
仕事が面白くなり、結果も出始め、ハードワークそのものが楽しくなってきた矢先のことだった。
祖母の好意に、私は完全に甘えていた。早朝に家を出て、夜遅くまで仕事をして帰る。祖母は、毎晩起きて私の帰りを待っていてくれた。
温かい風呂が用意され、きれいに敷かれた布団があり、夕食を済ませていないときには、祖母も一緒に待ってくれていた。
若かった私は、多少生活が不規則になっても体調を崩すことはなかった。だが、高齢の祖母にとって、それがどれほどの負担になっていたかを、私は想像することすらしていなかった。
無意識のうちに、祖母の生活のリズムを、私が壊していたのだ。祖母は、倒れるべくして倒れた。
夢と仕事に酔い、自分の都合だけで動いていた自分を、心の底から恥じた。
祖母はその後、自宅に戻れるまでには回復したが、以前のような元気な姿に戻ることはなかった。それ以降、祖母の家に泊まる際は、日が落ちる前に仕事を切り上げ、生活のリズムを乱さないよう心がけるようになった。
だがそれは、祖母のためというより、私自身の罪滅ぼしだったのかもしれない。
数年後、祖母は静かに人生を閉じた。
生まれ故郷の京都に、もう祖母はいない。自分の都合で祖母の家を拠点にし、仕事に没頭した数年間で、会社は右肩上がりに成長していった。
祖母の命を何年分かいただいて、事業も自分も成長したのだと思うと、今でも胸が痛む。
祖母は、私の仕事のやり方について、何ひとつ口を出さなかった。徹夜もいとわない私の働き方を見ても、何も言わなかった。
ただ、家族への姿勢についてだけは、厳しかった。
「奥さんと子どもは大事にせなあかん。出張先では、仕事が終わったら必ず家に電話しなさい。誰のおかげで仕事ができているんか、それを忘れたらあかんえ」
この言葉を、私は今でも忘れることができない。
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09 ミラノ出張〜 9.11直後、国際線に搭乗する 〜当社の「従業員」の定義
当社では「従業員」を“理念やクレドに従う全スタッフ”と定義しています。
つまり一般的な社員だけでなく、アルバイトさん、パートさん、
そして経営トップや役員も従業員の一人であり、そこに優劣はありません。
一般的には、経営者に「従う」という意味で従業員という言葉が使われていますが、
当社では理念やクレドに「従う」という意味で、
経営トップも含めて関係者全員を従業員と定義しているのです。
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